パッと花が咲くようだとおもっていた。
女どもの黄色い声をその背に浴びて、ぞっとするような笑みを貼り付けている。異国の芸者だというその子供を初めてこの目に映した時のその瞬間というものは未だに忘れがたい。忘れられようものか。あのおぞましく吊り上がった口端と、狭い肩に不似合いの大荷物を背負って、そうして現れた。下宿屋である古本屋の荷の積み下ろしの手伝いしていた俺に、あのガキは狐の面のような笑みを携えて言ったのだ。
「リン・ヤオでス。どうぞよろしク」
夕暮れどきの太陽が叫ぶようにしてその光を撒き散らしていた。愚かしい輝きが二人を分かつ。なにもかもが崩れていくようだった。小さな手のひらに握られた地図と思しき紙切れに書かれた異国の言葉も、俺よりも幾らも小さな身長も、忍び寄る夜更けも、この瞬間が全てであった。



「グリード、グリード、腹が減ったナ」
「お前なあ、年長者は敬称で呼べよ」
「ケイショー」
「ああ、もういい」
鍵のついていないことをいい事に、なにかと部屋に押しかけてくるようになってしまったリンの相手をしているだけで、俺はもう疲れ果てていた。難しい言葉は分からないリンは、読み書きもできないし、もちろん手紙だって書けやしない。以前に本来の職である書き物を手伝わせようとして、寧ろ時間が掛かったことを思い返すとそれだけで、頭が痛かった。部屋の中には2月の風がごうごうと吹き込み、そのあまりの酷な様子に身を縮こまらせながら扉を閉める。当然と言わんばかりの面持ちで俺の半纏を着ているリンの背中を蹴ると、ぎゃあぎゃあと喚かれたものの、大体において悪いのはこいつだ。
世界一の芸者を目指しているというリンは未だ十五歳という恐れおののくような若さである(出会った当初はまだ十二だったのだから、もう三年も経つのだが、それにしたって若い)。
母国を飛び出して来たというリンの素性はよくも知らないが、それでも、悪い人間ではないような気がするものだから、少しばかり甘やかしてしまっている。仕事がないと泣きつかれてしまえば泣けなしの銭で蕎麦屋にでも連れて行ってやる。古着なら文句を垂れつつ与えてやる。言わば兄弟のようなものだった。奇しくも外見だって似ているものだから、古本屋の主人には「本当に兄弟ではないのか」などと聞かれた覚えもある。しかしおれには兄弟はいないし、親は幼い頃に病によって亡くなってしまっている。リンの存在だってまるで覚えがない。そもそも顔の作りだって、そこまで俺自身は似ているようには感じないが、街中を歩いていれば女どもにリンと間違われることもしばしばある。リンだって最初は驚いていた。芸者を目指していて、大食漢で、ここらの界隈では割と有名である、というのだけが俺の持つリンの情報だった。割に長い付き合いだが、互いに身の上話を好んではいなかったからだ。それでも何故か、リンはこうしておれの部屋をよく訪れるし、おれだって決して拒まない。こそりと足音を忍ばせてこの部屋を訪れるリンを楽しみにおもうこともあった。気に入っている。確かにそう思う。
仕事机の上に放ってあった紙幣を掴み上着のポケットに突っ込んで、そうしてリンを見やれば口元を緩ませてこちらを見上げている。だらしなく着崩した服装はこの厳冬では今にも凍えてしまいそうだった。
「蕎麦と饂飩、どっちが良い」
「蕎麦がいイ!」
にんまりと笑みを浮かべてそう言ったリンに、おれまで笑ってしまいそうになる。なら上着を着てこいと言うやいなや、ばたばたと部屋から出ていき、上着を引っ掴んできたリンは年齢相応に幼く、あの気味の悪い作り笑顔も形を潜めている。おかしな発音にももはや慣れてしまった。部屋の電気を消して部屋をあとにする。どうにかなりそうな銀色の風が飛んでいった。出会ったときはあんなにも小さかったのに、今では俺と大差のないほどまで背丈を伸ばしたリンを見やる度に思う。弟、確かに、そんなような存在であるのに、それだけでは言い表せないのは、なぜだろう。びゅうと吹いた風に身を震わせる。


ぽっかりと空に浮かぶ三日月を眺めながらも夜風に身を震わせて部屋に戻った。極寒の室温に身震いをしながら電気ストーブと炬燵に電源を入れるといち早く炬燵に潜り込んだリンの頭を叩く。
「手を洗ってこい、風邪ひくぞ」
「だって、冷たいシ…」
「風邪ひいても看病もしねーし伝染ると困るからここに来るのも禁止だからな」
「ケチ!」
「ケチじゃねえ!変な言葉ばっかり覚えやがって」
口を尖らせて手を洗うリンの、適当に放られた上着を畳む。結構昔におれが与えたものだ。そこそこ綺麗に着ているらしく、シミ一つないままの状態であることがなんだか意外だった。こう言っちゃなんだがガサツだし、面倒くさがりな奴だ。てっきりもうボロ切れにされているんじゃないかとも思っていたものだから少し驚いていると、手を洗い終えたリンが大袈裟に寒がりながら再び炬燵に潜り込んだ。すっかり俺の部屋に戻るのが当たり前になってしまっているこの現状に、こいつはなにも思わないのだろうかと考えながらも手を洗い、同じように炬燵に入る。
「ああ、おなかいっぱイ。ごちそうさマ」
「少しは遠慮しろよ、月末だぞ」
「おれがいっぱい食うって知ってて連れてってくれるの、グリードだけだヨ〜」
そう言われてしまうと、なにも言えなくなってしまうことを知っているのだからこいつは狡い。大人を馬鹿にしやがって、と怒鳴りたい気持ちもあるが、気がつけば日を跨ぐ頃合だ。そんなことをしては追い出されてしまいそうである。なるべく気持ちを抑えながら、表情を緩めながら腹をさすっているリンを眺める。僅かに赤くなった鼻の頭が間抜けで笑いそうになる。
「こんなに良くしてもらってるグリードになら、ケツくらい貸してやってもいいナ」
「あ?おまえなんか抱いてやんねーよ」
「でもグリード、おれのことダイスキだロ」
ダイスキ、の発音がいつまで経っても部屋の中をグルグルと回っていくようだった。おれが、こいつを、抱く?何の為に。
「あのなあ、おれは結構女には不自由してねーんだよ」
「ふうン」
「馬鹿にしてんだろ」
確かに、最近は結構、いやかなり、ソッチは無沙汰をしているがそれでも今までに何人もの女を抱いたこともあるし、その気になればすぐに、まあアレだ。そういうことだ。最近はこいつがいつここに来るかもわかんねーし、教育上良くも、でもこいつこの歳でケツ貸すとか言ってるくらいだから、そういうのは考えなくても良いのか?というか恐ろしい話、別に女を抱きたいと思わなかったってのが本音だ。性欲は人並みか、それ以上にはある筈だ。それなのに一体どうしてしまったのか。
リンの一言に思い悩んでいる俺に、当の本人は眠たげに目を擦っている。クソ、おまえの所為だぞ。
「…おまえが来るから、女も呼べねーんだよ」
「なんだそレ。おれ邪魔カ?」
「いや、んなことはねえ、な」
「わけがわからんぞ、グリード」
それはこっちのセリフ、っつーか、いや本当に、俺どうしちまったんだ。
寒くてたまらないのに背を冷や汗が伝う。なんだこれ、なんだか、これ以上考えるべきじゃないような気がしてならないが、それが具体的にどんなようなことなのかがわからない。なんだって言うんだ、こんなガキ一人、なんだってないはずなのに。苦し紛れに、不思議そうにこちらを見るリンの頭を叩けばまたぎゃあぎゃあと騒ぎ出す。胸に巣食う違和感が拭えないまま、リンを見つめていると、ホッとしている自分に気がついて恐ろしくなった。あ?なんだこの、父親のような目線は。いや、さすがにまだ早いだろ俺。まだ世界中の女を俺のものにするっていう野望が、っつーかそれすら今まで忘れてたなんて、あれ、やばくねーか。病気か、俺。
「リン」
「なんだヨ」
「俺が死んだらどうする」
「ええッ!グリード死んだら困ル!」
大真面目な顔をして、乗り出してきてそう言ったリンの様子に驚いていると「グリードが死んだら路頭に迷ウ!」なんて言われ、また頭を叩く。なんてガキだ。


大あくびをして目を覚ますと、リンが顔を覗き込んできた。驚きすぎて硬直しているおれに、にいと笑っておはようと言ったリンに、おかしな発音でおはようと返す。そんなおれがおかしいのかケロケロと笑うものだから、苛立ち混じりに頭突きをかまして、身悶えているリンを鼻で笑った。いい気味だ。
「死ぬほど痛いゾ…グリードのばかヤロウ…」
「おまえが笑うからだろ」
「もっと優しくしろヨ…あ!なあ、おれ、仕事決まったんダ!」
「仕事?なんのだよ」
「ゲイシャだヨ!踊るノ!」
未だに寝ぼけた頭に、リンの言葉はなんとも痛烈に突き刺さった。ゲイシャ、踊る。ああそういえばこいつ芸者だったんだっけ。もう三年にもなる付き合いだが、おれが仕事を見られるのはしょっちゅうだが、こいつが仕事をしているのは見たことがない。まあおれは翻訳家だし、こいつは芸者だし、そもそもの種類が異なるんだからそれも当然か。
「芸者って、そういえばおまえ男じゃねーか。男でもそんなんできんのか」
「できるヨ〜でもやってる人、とっても少ないかナ」
「着物着て踊ったりすんのか」
「めちゃくちゃ格好いいゾ」
にやりと笑ってそう言ったリンの顔があまりにも幼く、嬉しそうなもので、なんだか笑ってしまった。普段の間抜けな様子とはかけ離れて凛とした佇まいを見せるリンなんかは想像できやしないが、そんなこともあるのだろうか。少しばかり見てみたい。初めてそう思った。ただのなついてるガキなんかじゃなく、リン・ヤオが舞を踊るのを、見てみたくなった。そこでこいつがどんな顔を見せるのか、俺の知らないリンとは、どんなものであるのか。
「いつやるんだよ、休みとらねえと」
「節分祭で、ここから十分ほどの神社なんだけれド…珍しいなあ、グリードがそう言ってくれるノ」
ぽかんと口を開けたリンにそう言われるまで、こんなに踏み入った話をしたことは初めてだということに気がついた。俺たちは今まで確固たる各々の領域に踏み込まないようにしてきたけれど、今回はなぜか聞いてしまった。ああ、うん。気の抜けた返事をする俺を見つめていたリンの顔が、次第に明るくなっていく。照れた笑顔を臆面もなくこちらに向けて、輝かしい笑みを見せるリンに、昨日の違和感が熱を持ち始めた。
「とっても嬉しイ。見に来てくれヨ」

(こいつを抱く?何のために)

言い聞かせるようにして考える。
不完全な感情に気付かないように、この輝かしい笑顔に後ろめたさなど覚えないように。
「ああ、仕方ねーな」



白日




 

 

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