午前五時近くにもなるだろうか。遠くの空がぼんやりと白みを帯びてきて、その付近の星々の光を掠めさせているのを眺めながら、鼻先を燻る銀糸のような冬風に小さく身を震わせる。手に持ったマグカップの中身がすっかり冷めてしまってもそれを捨てようとは思わなかった。だからと言って飲みたくなるようなものでもないが、置く理由もない。ため息をつけば白く濁って、なんだか海底を彷彿とさせる光景だと考えているとすぐ隣に男が腰掛ける。まるで同じ格好の、まるで同じ顔をした男だ。グリード、と名前を呼ぶと、寒いと文句を零すそいつを笑う。同じように揃いのマグカップを手にしているが、こっちはココアであっちはコーヒーだ。よくもそんなに苦いものが飲めると毎度感心すら覚える。しかしそんなことは現状においてなんの意味も持たず、ただ空は白んでいくし、相変わらず寒いままだ。
「…風邪ひいてもしらねえぞ」
「おれのこと心配してくれるのカ」
「そうなると体の具合も悪くなるだろ」
自惚れんな、と言って鼻で笑うのに、コーヒーを啜りながらこんなにも寒くて狭いベランダに居続けているのがなんだかおかしかった。いつだって優しいのに、それを認めようとしない。そもそも、おれとグリードがなぜこうして離れた一個体として行動し思考していられるのかと思わないでもなかったが、それを今尋ねるにはあまりにも無粋であるような気がした。理由があるならばグリードから話すだろうし、そもそもほんとうに別々になれたならこいつがおれの近くでこんな風に間抜けな顔をしてコーヒーを飲むこともないはずだ。よく分からないけれど。すっかり冷めたココアをほんの少しだけ喉に流し込む。ざらついた後味がいつまで経っても喉にへばりついているようだった。
「つーかよ、おまえ、いきなりいなくなんなよ。寒いじゃねーか」
「ははあ、グリードはおれがいないと寂しくて眠れないのだナ」
「なんだそのにやけた面は」
「おっ否定しなイ?」
「こうして起きちまってんだから、否定もできねーだろ」
「…グリード、熱でもあるんじゃないノ」
「おまえこそ顔赤いぜ」
指摘され、なんとも不器用な笑みを浮かべると気味が悪いほど穏やかな視線を投げられて驚いた。目の前にいるこの男が果たして本物のグリードなのかと疑わしくなるくらいには違和感のあるものだったけれど、どうやらまぎれもない本物らしい。慣れ親しんだ気を間違うほど鈍い人間ではないはずだ。しかし、今までにあんな風だった男にこんなにも優しくされるとどうすれば良いのかまるで分からなくなってしまう。裏表のない人間は恐ろしかった。ずっと前から、自分が一族繁栄のため生きると決めたあの時から。グリードの持つマグカップがあまりにも暖かそうで羨ましげに眺めていると、それを頬に押し付けられた。じわりと広がる熱が、切り裂くような風を浴び冷え切った体に心地よい。そうしてやっと、自分が寒いと感じていたことに気がついた。それまで自分の鼻が赤くなっているだろうことにさえも気がつかなかった。
「あったかいナ」
「そんな薄着で外にいれば体も冷える」
「おまえだって同じじゃないカ」
「おれは今来たばかりだ」
確かにそれもそうだ。まさか本当におれがいないから起きたのではないだろうが、今までグリードは寝ていたはずだ。ホムンクルスでも寝るのかとすこし驚いた気もしたが、グリードに言わせればそれはどうやらおれのせいらしい。予め成長したリン・ヤオとしての固体をベースにしたものだから、ホムンクルスとしての活動に入れ物である体のほうが耐えられない。そもそもが別なんだから睡眠だって必要になるらしいが、それで文句を言われるのはお門違いだ。おれの体を好き勝手に使ってくれるんだから、ケアくらいは万全にしてもらわなければ。
夜空だったものが焼かれていく様は恐ろしくって、寂しかった。自然と手が震え、それを悟られぬようにマグカップを置く。相変わらず下品な音を立ててコーヒーを啜っているグリードが一度だけこちらを見るのが分かった。しかしなんの反応もせず、ただ空を見上げている。フラッシュバックするのは、今日のような極寒の夕方のことだ。おれがまだ幼く純粋であった頃。全てが光り輝いて見えた、あの頃。



「貴方が生まれたのは天に見初められたが故のことよ」
愛しい子、と笑う母様の手は気味が悪いくらいに痩せ衰え、家畜の鶏の足を連想させるものだった。夕日に浮かんだ青白い顔は能面のように生気がなく、その顔を見ることが恐ろしかった。優しすぎる声色も低い体温もだ。
「はい、母様」
震える声を押し殺し返事をするといつだって頭を撫でてもらえた。特別それが好きだということもなかったが、拒否するものでもない。しかして、こうされる度におれはひどく体を強張らせることとなった。いつだって微笑を絶やさぬ姿は幼い自分に畏怖を植え付け、それを増幅させた感情も今では分かる。狂気に取り付かれた母様はおれを愛してはいなかった。いつだって幼いおれの頭を撫でるあの人の手はその昔に一度だけ己を抱いた皇帝を求めていたからだ。ヤオ族繁栄の為とはよく言ったものだ。結果として彼女はおれが六つのときに息絶えた。嵐の夜に氾濫した川に身を投げた彼女は日に日に皇帝の影を見せるおれを危めないよう自分で命を絶ったのだ。美しい母様がおれを身篭ったのは十五の時だと云う。奇しくも、こうして奇妙なホムンクルスを体内に受け止めた自分と同じだ。
今だって夢に見る、肌を突き刺すような冷気のなか、たった一度だけ手を繋いでくれたあの日のことを。一族のために生きよと微笑んだあの哀れなヒトを。



「おい、聞いてんのか」
おれを呼んだグリードの声でようやく我に返ると、随分と不機嫌そうな顔をしたそいつと目が合った。ん?と首を捻ると頭を殴られ、星が瞬く。
「なんだヨ!痛いじゃないカ!」
「こっちのセリフだガキ!おめーが何か話せって言ったんだろうが!」
「…言ってないゾ」
「言っただろうが!ったく、わけわかんねー」
「こっちのセリフだヨ」
呆れたような怒ったような顔をして見せたグリードは重くため息をつくと、三センチばかり残っていたコーヒーをグイと飲み干して、そのままおれに口付けた。口腔に広がっていく苦味が嫌で胸を押すが、後頭部を押さえられているせいで離れられない。角度を変え舌を絡ませ、その気持ちよさに絆されたおれがすっかり観念すると、満足げに離れていった。涙を滲ませるおれを見てガッハッハと笑うそいつをじとりと睨む。
「苦イ…」
「いつももっと苦いの飲んでんだろ」
「ひ、人聞きの悪いことを言うナ!」
おれから頼んで飲んでるみたいじゃないかと小さく反論しつつ、同じように残っていたココアを飲み干すとなぜだか後味の悪さは気にならなくなっていた。強欲のグリード、ただ一人の相棒であり、唯一体を許す男。そんなグリードが無性に愛しくなる。おれの狡さを知らないままでいてくれたらと願う半面で、全てを知って欲しいと欲が疼く。どちらが強欲だ。嘲るように笑うと、今度はこちらから口付けた。未だ苦味の勝る唇にただ重ねるだけの健全なキスは性欲よりも愛慕を思わせ、誰よりも驚いたのはおれ自身だ。ちゅっと音を立てて離れれば、目を皿にしたグリードと目が合う。こういう顔は、なんだってこんなにも不釣合いに可愛いだなんて思えるんだろう。
「おまえのこと好きだ、グリード」
「あ、おう。知ってるぜ」
「とってもだヨ」
知らないだロ、と言って笑うと朝日が目にしみた。正しい世界がやってくる。全てが元の通りに戻りだす。
「おいリン」
頭を撫でた体温の高さに今更眠気が襲ってきた。眠れないからと寝床を抜け出したのに、なんだ、一緒じゃないと眠れないのは、どちらだろう。
「おまえが落ち込んでると、心配すんだよ。なんか思うことがあるんならおれに言え。心配かけてんじゃねえ」
「…そう言われると、嬉しいネ」
「おまえが大事だからだ」
朝がやってくる。こんなにも暖かい光なのに、苦しくてつらいのはどうしてだろうか。滲み出す視界は急速におれの意識を奪っていく。
愛してると言われなくて良かったと、そう考えているおれはやはり母様の子供だ。ぬるま湯に沈んでいくような心地が体を包むと、空に浮かぶ太陽を尻目に眠りについた。暖かな手のひらを思い返しながら、深い魂の渦に沈む。
起きたら思い切り愛を囁いてやろう。怒るくらい困らせて、キスをしたい。おれのことを心配して、会いに来るほど大事に思ってくれるおまえに。



グリリンと夜明け








 

 

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