当てもなく空を漂っていた。

親父殿により散り散りにされた惨めな体は殆ど原型を留めることができず、今となってはもはや自分がどんな生き物であるか説明だって出来やしない。そもそも生き物ですらなく、何故こうして思考できているのかすら不明だ。確かに死に至ったはずだった。この期に及んでは何も欲することも、誰の目に映ることも適わない。生きてはいない、けれど死んでもいない。もしや体さえ拝借すればどうにかなるかも知れないが、そんな気はとうに失ってしまった。親父殿の作り出した強欲は確かに消されてしまったからだ。しかして、それが消えたなら残りかすであるこの思考は一体何だと言うのか。―そう言えば、昔から考え事が苦手だった。これを言ったのは誰だっただろうか。そんなことさえも忘れてしまった。
ただ、今にも泣き出しそうな顔をしたあのガキはうまいことやれたんだろうかと、それだけを考えていた。考える時間ならば掃いて捨てるほどあった。そうだ、ゆっくりと時間をかけて、あいつに会えたなら良い。それが出来れば未練がましくこの世界に留まっていることもなくなるはずだ。ああ情けない、あんなガキ一人が心配で消えることができないなんて。自嘲気味に笑って、こんなときあいつなら大きな口を開けて笑うのに、と考える。
シンはどっちの方角だったか。
散り散りになったはずの手足に、熱が帯びてくる気がした。









あの運命の日から早くも二年が経った。
慌しかった生活にも漸く平和が垣間見えるほどには生活も落ち着き、その事態に胸を撫で下ろしている。それはもう心の底から大変な二年間だった。思い出すのも憚れる。崩御を迎える前に声明を頂けなければもはや乱世と化していただろう大国シンは、動乱どころか、以前にも増して活気付いている。人々の表情は明るく、それに連なるように国さえもが更なる発展を遂げていた。しかし広大な砂漠や海さえ厭わないと旅客が後を絶たなくなったのは昨今である。皇帝が決まるまで、否、皇帝が決まってからも、権力争いは続いていたからだ。治安も劇的に悪化し、何より、いくら声明があったからと言ってもそれで他家が納得するはずがなかった。神経を削りあう皇帝争いは何の変動もなく行われ、偶々自分はそれに頭一つ抜き出た存在であっただけだ。一番のネックは年齢と、ヤオ家に流れる実しやかな「皇帝・皇子暗殺計画」のうわさだった。今となっては悲しくなるばかりの噂は信憑性に欠け、ほとんど問題もなかったものの、年齢については偽ることも、それに拘るなと叫することも出来ない。自分の国を治めているのが二十歳にもならぬ青二才であれば、少なからず抵抗を覚える者が殆どだろう。しかしそれでもこのシンを我が手中に収めることができたのは、優秀な臣下たちの闇の術や、やはりあの声明に因るものが殆どだ。それこそ自分のできることなどは殆ど限られ、意味を成さないものばかりであった。、それが収まるまでは碌に外出すら許されなかった。こんな青臭いガキ一人無くしたって、国に痛手はない。それだけに皇帝に選ばれたのは他の誰でもなくおれだったのだから、もはや誰にも文句は言わせない。少なくとも他家に比べ特別疚しいことをしていたわけでもないのだから当然だ。いっそのこと刺客を送り込んできた他家のものを調べ上げ、二度と同じ行いが出来ぬようにしてしまっても良いが、皇帝たるもの無闇な暴虐は人々の反感を買うばかりでなく、此方の命もますます危ぶまれる。不平に文句を言いたいのなら民を目指せば良い。おれが目指しているものはもっと崇高で、より素晴らしいものだからだ。


重たく窮屈な正装着を正されることにも殆ど慣れを感じていたおれは、ただ手早く締めただけの帯が再び緩められ、直される様をぼんやりと眺めていた。しなやかな女性特有の丸みを帯びた掌は冷え切り、度々肌に触れれば同じ回数だけ背筋がぞわりと粟立っていたが、ただ目を伏せるその女性は此方を見ることも口を開くこともなく丁寧な手つきで全てを正していった。その緩みかかった空気や自我すらもだ。女性の背後で地獄の門のようにこちらを見つめる荘厳な姿見におもう。着物すら一人で着れないとは、皇帝というのはまるで赤子のようだ。おれが目指してきたこれは、外との関わりを殆ど打ち切り、与えられた食物をただ食らい、そうしてただ書類に判を捺すことしか認められないのか。ため息をつくとようやく女性が顔を上げ、慌てた顔で気分の良し悪しなどを問うものだからこちらも困ってしまう。気にしないでくれと言っても気にされるんじゃ溜まったもんじゃない。
父様、貴方が遺した畏怖の念は、ろくでもないところでばかりに、意味を成していますよ。



本日の業務を終えた体には暇疲れと空腹感が襲っていた。バカみたいに長くてだだっ広い廊下を歩いていると、そういえば最初のうちは長すぎる裾を踏んで何度も転んだものだったと思い返す。青痣の絶えない皇帝と揶揄を受けたこともあったかと思い出し、それが恥ずかしく、しかし何故だか笑ってしまう。この二年間、ただひたすら、穴を埋めることに懸命だった。だれにも許されなくても良かったのに、結果としてすべてに許されてしまった。大切なもの一つ守れない人間でいるのはもう嫌だった。だから必死で、これだけは譲れないと決めた。毒入りの酒も罠の張られた会合もすべて逃げず、捩じ伏せてきた。貴様らにこんなことが出来るものか。真の王とはどんなものか教えてやる。嘗ておれが捩じ伏せられたように、同じだけの恐怖を与えてきた。今だっておれを憎む者は大勢いるだろう。それでもおれは決してこの座から動かない。決めたことだった。ただ一つの約束だけが体を突き動かしていた。
一定の距離ごとに置かれた天窓から月光が降り注いでいる。懐かしい光だ。そういえばここ何日も外に出ていない。偶には体を動かさなければいけないが、幾ら暇があっても許可の無い外出は堅く禁じられている。遥か頭上では饅頭のように丸いかたちをした月が花のように愛らしく色づき、おれを誘っていた。こちらにお出で、若き皇帝。歌うように風が吹くと、すっかり錆び付いた体が疼くのを感じた。…ちょっと、だけ。誰に言い聞かせるでもなくそう考え忍び足で、それでも出来るだけ速く天窓までよじ登る。額を汗が伝い落ちていく。我ながら、身のこなしの軽さだけは誰にも負けないと自負しているだけあり、するりするりと獣のようだった。
難なく外へと出れば思わぬ強風に驚いた。ブワブワと吹き付ける夏風はそれでも爽やかに汗をかいた体を乾かしていく。暑くないわけではないが、それよりも久しい外の香りに興奮していた。窮屈な服なんてすべて放り出してしまいたくなる。この国で一番高い屋根の上なんてものは今まで登ってみたことすらなかったが、登って見たならこんなにも気持ちが良いものだとは。これは良い、と思わず漏らした言葉にハッとして口を塞ぐが、あの影のような臣下の姿はまだ見えない。ホッと胸を撫で下ろすと今度は空を見上げ、そのあまりの近さと煌々と降り注ぐ光に、今の今まで忘れていた深い穴を、うっかり覗き込んでしまったような、そんな気分に陥った。知らぬうちに息を潜める。苦しいほどの月光が身を侵す。目を見開いて、それを焼き付けた。
(ああ、そうか、おれはこれを知っているのか)
耳のそばを強い風が吹いていくと、思い出すのは二年前のことだけだった。あの恐ろしい生命の応戦。人智を超えた生物のようななにかと、その一部。強欲のホムンクルス、グリード。敵であるおれを気に入り助け、最後にはおれを助けるために消えてしまったあの男。今でもおれの下腹部には「親父殿」の腕が進入した痕が残っている。これは一生消えるものではないと細々と告げた臣下の、その時の心境と言えばおれよりも余程深い悲しみに満ちていたことだろうとおもう。それが分かるから少しだけ楽になった。お前がいてくれて、ほんとうに良かった。そう口にしたおれがあまりにもあっけらかんとしていたから、彼女は珍しくも少女らしい顔をして美しく泣いた。臣下の腕を無くして主が飄々と帰るなんて格好悪いだろうと宥めても全く泣き止まなくて、困ったんだっけ。
なあ、グリード、これ全部おまえが知らないことなんだぞ。お前だけだ。こんな堅苦しい正装に着られ、広すぎる家でただ一人でいるおれを悲しい気持ちにさせるやつなんて、もうお前だけなんだ。こんなに何もかも手に入れたって、お前がいなかったら、嫌がることさえ忘れちまうんだよ。
「…なんとか言えよ、バカ野郎」
言葉尻が震えると、途端に視界がぼやけ始めた。泣きたくなんかない。勝手にうそをついて勝手に消えていったあいつの為に流す涙なんて無い。クソ、クソ、なんだよ、おれは皇帝だぞ。この国を守って、この国を生かして、そうして骨を沈めると決めたからには泣いてる暇なんか無い。そう考えているはずなのに、溢れ出す涙はとうとう頬を滑り落ちていった。涙だけじゃない。あの日心のふかいところに沈めたはずの思いが蘇る。嗚咽を押し殺すために指を噛めば、犬歯が皮膚を貫いて鮮血が着物を汚していった。ああ、これでまたランファンに怒られる。皇帝、と呼ぶ凛とした声が脳を揺さぶる。淡い思い出を胸に閉まって早く帰らなければまた心配をかけてしまう。しかし、嗚咽が止まるには思ったよりも時間がかかった。ずいぶんと長い間、こうしていたような気さえした。
涙と汗で張り付いた髪を退け、手早く整えるとすっかり赤くなっているであろう目を擦る。なに、眠たいだけだと言えば良い。おれが大体の人間に興味のないように、大体の人間はおれに興味がないのだ。情けなく屋根の上で泣いていたとバレればどう言われるか、考えるのもバカらしかった。強すぎる月光のおかげで足を滑らせることもなく、また天窓へと戻る。明日は政治外交だ。腫れた目では話にならない。
そう考えた、その時だった。


今までに感じたことの無い気を背後に感じ、すぐさま懐に隠し持った刀の柄に手をかけ振り返る。すべてが照らし出される月の光の下、影を持たないあいつは相変わらず尖った歯をぎらりと輝かせ、此方を見ていた。何度も何度も夢を見た。いつか会える日を信じ、神を呪って目を覚ました。


「よお、泣いてんじゃねーよ」


ああ、これは、なんということだ!
身じろぎ一つ取れない自分の体も脳も、全て止まってしまったみたいだった。泣くなって、おまえがいうのかよ。おれの手を振り払って、カッコ付けて、呆気なく守って消えやがって、おれがどんな思いで夜を過ごしたのか、知らないくせに。
あれだけ用意していた文句は口に出せぬまま、止まらない涙とともに溢れ消えゆく。声を殺すことも出来なかった。こんなにも輝かしい月光なのに影すら見せず佇むおまえがあまりにも昔のままだったから、これはおれの寂しさが生み出した勝手な想像なんじゃないのかって、不安になる。けれど、おれが間違えるわけがない。この体に受け入れていたのだ。忘れるものか。顔も声も体も、心も。
ずっと呼びたかった名前が喉に詰まる。窒息してしまいそうで、またしゃくりあげた。
「また会ったな相棒」
屈託なくわらうお前が、おれの代わりに笑うおまえが、愛しくて、この思いをどう伝えればよいか分からなくって、泣き続けた。強くなった姿を見て欲しかったのに、もうどうだって良い。
「グリード、グリード、グリード」
おまえが好きだよ。



皇帝とおばけと再会


 

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