「なにか、心配事でも御座いますか」
それはもう涙のあとやら鼻水のあとやらで、酷い顔をしているおれに向かいそう言ったランファンをどう言いくるめればよいものだろうかと思案に暮れる。背を冷や汗が伝うのを感じながら泥酔した振りをし、「そういえば何故こんなところにいるんだろうか」など口走らなければいけない屈辱よ。酒のにおいなど微塵も漂わせていないおれを哀れみの目で見つめる彼女に胸が痛くなる。ああ、国を治める男がこんなにも馬鹿げた真似をしなくてはいけないとは。なんだっておれがこんなことをしなければいけないのかと必死に顔を袖で拭っていると、凄まじい剣幕で怒られてしまった。それは皇帝のみが身に着けられる先代よりお受け致した特別なものだと、前にも口を酸っぱくして言ったじゃないですか。そういえばそうだ、こんな袖を白くして民の前に立つわけにもいくまい。それというのも、ああクソ、先ほどからゲラゲラと大口を開けて笑っている男を睨み付ける。
「聞いていられますか」
「えっ、ああ、勿論だヨ!」
「…なぜアメストリス語で?」
「あ、いや、ハハハ」
苦々しく笑うおれを訝しげな面立ちで見つめるランファンに、これ以上誤魔化せぬと判断すると、ため息をつきすっくと立ち上がる。不思議そうな顔をしてこちらを見る彼女は、二年前に比べ、もうしっかりとした女性だ。今にもこぼれおちそうなほど大きく、透き通った瞳がこちらを見ている。小さいころは彼女のほうが大きくって、それがなんだか恥ずかしかったっけ。そう考えながら眉を顰めた。
「さて、寝酒でも飲むとするか」
口にした瞬間に走り出す。背に投げられた声ももはや形を成さないほど遠ざかり、意味を失ってそこらに漂っている。逃げるのは得意だ。ずっと昔から、それが一番得意だ。天窓まで駆けると躊躇なく滑り込み、音も立てずに着地しまた走り出す。長い長い廊下はいくら走っても終わりが見えないようだった。さすがにこの装束での走り辛さと言えば辛いものがあるが、ここで捕まってはひどい質問攻めが待っている。心配してくれるのは大変ありがたいものの、それでも彼女にはこの、なんとも愉快と言わんばかりの表情を浮かべた男の姿は見えていない。気だって感じてやいないだろう。そんな相手にどう説明すればいいだろう。二年前に消えたはずのグリードが今、おれの前にいるのだと言っても、医者を呼ばれるだけだ。それなら泥酔をしていたと言い訳をするほうがまだマシだ。それはもう必死になって走りながら、フワフワと浮いて移動をしているそいつを睨み付ける。随分と余裕そうな表情だ。
「楽そう、だナ」
「こちとら肉体がないもんで」
へえ、と返事をすると漸く自室が見えてきた。クジラのように大きな扉が封をされこちらを見ている。懐から取り出したいくつもの鍵でそれを開けるとすぐさま入り込み、そうして鍵をかけた。いくらランファンだろうとこの部屋には入れない。そういう作りにしたからだ。もしも夜時を狙われればおれが相手をしてやると、そう言ったのも記憶に新しい。僅かに乱れた息を整えながら、すっかりよれよれになってしまった装束を直す。そうして、なんでもない顔をして胡坐をかくグリードへ目を向れば、良い部屋だな、なんて的外れなことを口にされ頭が痛くなった。









「おイ、どうしてお前がいるんダ」
難しい顔をしたガキはそう言っておれの肩を掴もうとしたものの、それは空しく宙を切るばかりだった。あたりまえだ。さっきから体がないと話している。それなのにそいつは一瞬つらそうな顔をして、しかしすぐに隠した。あれだけ目の前で泣いておいて今更なんだと思わないでもないが、わざわざそんなことを言うのも馬鹿げている。喧嘩をしにきたわけではないつもりだ。
「いたら不味かったか」
「そんなことは無イ。会えて嬉しいヨ、ただどうしてだろうっテ」
「ああ、それな、おれにもよくわかんねーんだよ」
「ふわふわだなア」
赤くなった目元が白い顔によく映えている。昔よりも肌が白くなったようだと考えながら、結っていた髪を解き、眠たげに欠伸をして羽織をそこらに放り投げる姿を見つめる。痩せた。というよりも、やつれた、と言ったほうが適切だろうか。あばらの浮いた腰は見ていると別人のように感じた。皇帝になり、さぞかし良い物を口にしていると思っていたが、そうでもないのだろうか。髪が前よりも長くなって、肌が白くなった。顔つきは…大してかわんねえか。背も、生憎あまり変わっていない。それでもこの二年という歳月で、リン・ヤオという人間がどれだけ成長してきたかというものだけは見て取れた。成長せざるを得なかった部分もあるだろうが、大体においてはプラスになっている。なんの躊躇いも無く会えて嬉しいと言ったそいつに、少しも照れなかったと言えば嘘になる。前にはない艶やかさがあった。こちらに背を向け、ゆっくりと着替えていくリンを見ないように時計へと目をやる。午前二時。立派な夜中だ。
「おまえがヘコんでねーかって見に来たんだよ、あの世から」
「ならもっと早く出てこいヨ。もう悲しむだけ悲しんだゾ」
衣がするりと解け、白い背が露わになる。前はどこもかしこも日に焼けていたようだったが、この二年ずっとあんなもん着てたんじゃ、肌も白くなる。得体の知れないざわめきが体中を駆けていった。だだっ広いベッドに腰掛けたおれを振り返らないまま、リンは話し続ける。
「おまえがいなくなって寂しかったんダ」
「皇帝ともあろう御人がそんなガキみたいな」
「ガキだっていイ」
訛りのあるアメストリス語が、とっくに止まった心臓を脈打たせる。くるりと振り返ったリンは嬉しいんだか悲しいんだかわからない表情を浮かべて、赤らんだ目元がそれを余計に情けなく見せていた。二年、おれがいない二年の間、こいつがどんな思いだったか。
静か過ぎて眠れない夜はどう過ごした?
数え切れぬ涙はどうやって止めた?
聞きたいことが山ほどあった。時計の針が鳴る音だけが部屋中に響く。背を向けて着替えたのは、これ以上泣き顔を見せたくなかったこいつなりの、必死に成長した証じゃないか。なあそうだろ、リン。
「ガキだっていいから、どこにも行くなヨ」
ぐしゃぐしゃに顔を歪めたそいつが伸ばした手はなににだって触れることなく、おれの魂に触れた。おまえの手は、日溜まりの中にいるみたいに、暖かいぜ。そう言って笑ったおれに、結局泣き出したそいつを眺める。ずっとおれを待ってくれていたヤツ一人抱きしめられないなんて、こんなことってあるだろうか。こんな酷なことが、あるだろうか。ただ少しでも体温を与えてやりたいのも強欲だからか?グリード、その大罪の名は、許されはしないのか。
「どこにも行かねーよ、今度は、最後まで一緒だ」
触れられないと分かっても手を伸ばす。おまえに会いたくて、ただ一目見たくて、そうして過ごした二年がどれだけ長かっただろう。おまえに嘘をついたおれのために泣くなよと笑うことしかできないなんて、滑稽だ。顔を見れば満足できると思っていたのに、こんなに泣かれてはそれも適わない。まだおれにガキらしい表情を見せてくれるそいつを残してどこかに消えちまうなんて、そんなことはできそうになかった。









もしももう一度会えることがあれば、決して涙は見せまいと決めていたはずのおれの心は呆気なく反旗を翻していた。それどころか白旗だ。全面降伏だ。申し開きもないほど泣きつくしたおれは眠ることもできず、ただベッドに腰掛け、これまでの経緯をぼうっと聞いていた。この二年間どうしていたか、なぜおれの元へ現れたのか。耳から火が出そうな顔をしておれに話したグリードと同様に、おれもまた同じ顔をしていたとおもう。そもそも、魂だけになっているのになんで同じ姿をし続けるのだろう。もしや気に入ってくれているのだろうかとか、そんなことを思いもしたものの、聞いてしまえばもっと赤面することになりそうで、何も言えずにただ聞いている。瞬きをする暇すら惜しかった。そうしている間に、もしや消えてしまうんじゃないかと心配だった。手を伸ばせば届く距離に身を倒しているグリードは欠伸なんかをしていて、幽霊でも眠いのだろうかと考えるとおかしかった。
「お前に嘘ついちまったからな、怒ってるだろうと思ってた」
「一年前くらいまで怒ってたヨ。でも、あれはしょうがなかったんだなって最近思うようになっタ」
「ションベンガキだったのに大人になったじゃねーか」
「色々あったんからナ」
この二年、ほんとうに、人格が変わるほど忙しかった日々のことを思い出し胸が苦しくなる。その間におれが何を思って耐えていたのかって、そんなのは聞かれても勿論いえないけれど、なんとなく筒抜けであるような気がしてならない。一人分しか沈まぬベッドに、確かに二人存在している。その事実が嬉しくてたまらなかった。
「グリード、話したいことがたくさんあるヨ」
「おれは…これ以上話すと、なんかおかしくなりそうだ」
「もう大分おかしいゾ」
「うるせーよ、ガキみてーにわんわん泣きやがって」
「あ、それを言うのカ!」
さっきまであれだけ優しかったものの限界だとばかりに寝返りをうってしまったグリードが可愛く思えてついニヤけてしまう。そうだ、こんな感じだった。優しくしてくれるグリードも良いけれどやはりおれのおもうグリードってのはすぐに怒って、すぐに笑ってくれるような奴だ。そんなお前が好きだ。グリード。名前を呼び、あちらを向いてしまった男の背に声をかける。
「また会えて良かっタ。ほんとうに嬉しくてしょうがないんだよ、グリード、こっちを向いてヨ」
「…あの時から、甘えるのだけはうまいやつだな」
「逃げるのだってうまいサ」
速かっただロ、と自信満々に言えば大口を開けて笑われた。笑っているのに涙を流すグリードを抱きしめたいのに、おれがそんなことを出来る日はもうこないのだと、漠然と考えていた。
「泣くなよ、おれも泣いちゃうゾ」
「泣いてねーよ」
「うんうん、そうカ」
「…もう寝ろよ皇帝。寝てる間に消えやしねーから」
不安におもっていたことをすっかり言い当てられたことよりも、そっぽを向きつつおれを気遣ってくれるそのこころが嬉しくて、もしも抱きつけたなら、と思わないではいられない。どうしようもない考えが脳内を占めていく。手も繋げない、背も抱けない。それでも良かった。ただそこにいてくれるだけで、なんだって良かった。
「じゃあ、ちゃんと起こせよグリード。寝坊したらランファンに怒られるからナ」
「それが人にものを頼む態度か」
「皇帝サマだからナ〜」
そう言って笑いながら横になると、伸ばしかけた手に、触れられない掌が重ねられた。体温も違和感もない。それなのに、どんな酒よりも安心して眠れる。
起きたときにグリードがいなかったら、と考える頭を切り離してしまいたい。早く眠ってしまいたい気持ちと、いつまでもこうしてしまいたい気持ちが交差する。
「おやすみ、グリード」
「おう」
こんなにも焦がれているなんて、お前は知らなくて良い。だからずっと、ただそばにいてくれよ



皇帝とおばけと就寝






 

 

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