朝になっても依然として姿を消すどころか、間抜けな顔をして眠っているその姿を見て言い表し様のない幸福感が襲う自分が、まるで生娘さながらに顔を赤くしていることに気がついた。なんだ、このくらいで、とは思うもののこればかりは誤魔化せない。嘘は得意なはずだったのに、まったくひどいもんだ。
「起きろヨ、グリード。おまえ睡眠なんか必要ないだロ」
「うるせーやつだな…」
くわ、と大きな欠伸をひとつして眠気まなこを擦るグリードに、表情が緩む。もしも体があれば、乗っかって起こしてやったのに。笑っていると、壁にかけられた鏡が目に入る。既に赤みの引いた頬はここ二年の生活ですっかり色を白くし、どうにも病弱そうに見えた。鏡を見ることが嫌だった。それでも鏡を見ながら夜着を脱いで、適当な衣服に袖を通す。どうせあとで着替えさせられるのだから、こんなものはどうでもよい。そうしていると、鏡に映らないそいつが、すっかり目を覚ました様子でこちらを見ていた。放けているのか、と口にしようとした瞬間にその目が笑う。
「もう女は抱いたのかよ、皇帝」
「…なんだっていいだロ」
「おまえさあ、せっかく国で一番になったのに、何も手に入れなくてどうすんだよ」
「おれは、妻は要らないんだヨ」
「ならせめて沢山遊んでおけよ。いつ死ぬかわからないからな」
「うん、まあ、その気になったらナ」
その気になる日なんかは恐らく死ぬまでこないだろうが、そんなような返事をするとつまらないと眉を寄せたグリードを振り返る。いつ死ぬかわからないなんて、不運な事故だとでも言いたげじゃないか。再びふつふつと沸き起こる怒りを感じないでもなかったが、こんなふうに言われてもおれはグリードが好きだ。女は抱かない、妻も取らない。世継ぎを残すことは、少なくともおれからすれば抱くことではない。快楽を求めるわけではなく、ただ子孫を残すためだけにそうすることを、よもや抱くなどと言い表すこともないだろう。
適当に会話を交わして服を着込む。幾らだって着なければいけないおれへ、驚愕の視線を向けるそいつが面白かった。間抜けだと笑うと、獣のような顔をして怒られる。
「なんでそんなに着るんだよ」
「おれだって聞きたイ」
これのせいで、おれのことを太っていると思っている民もまあ少なくはない。決してそんなことはないのに、失礼な話だ。最後に髪を結う時まで、そいつの視線はずっとおれに注がれていた。そうして気づくのは、こいつは、今なによりもおれが大事なのだということだった。なんだかこそばゆいと目を伏せる。好意を抱かれるのは苦手だった。嫌われているなら、次にどんなことがされるのかも大体検討がつくが、好意とあればそうはいかない。昔から、好かれることよりも怨みや嫌悪の対象になることの方が多かったことも理由にあげられるかも知れない。しかし、この強欲にそう言われるのは、そう悪い気がしない。それどころか、あんなにも泣くほど、…いや、もう、よそう。時計へと目を向ければ、もういい時間だ。
「おい、おれはもう仕事に行くが、お前はどうすル」
「どうって…おれにこんな退屈な部屋で待ってろとか言うのかてめえは」
「着いてくるカ?」
「もちろん」
ぎざぎざと尖った歯を覗かせそう笑ったグリードは、昨夜の優しげな様子などもうどこかへやってしまったようで、相変わらずの強欲をひけらかしている。好きにしロ、と言い部屋を出ると、後を着いて歩くのが、子供のようで可愛いな、なんて思っていたおれは、すっかり油断していた。重たい扉を開けた瞬間、聞き慣れた声が飛び込む。
「お早う御座います、皇帝。恐れ多いながらも、幾つかお聞きしたいことが御座います」
「…おはようランファン」
雪のような肌によく映える隈を作った彼女は膝をつき頭を垂れながらそう口にした。さて、どうしたものだろう。









「あのねーちゃん相当怒ってたな」
「うん、すっごい怒られちゃったネ」
随分とこってり怒られたリンは先ほどの剣幕にすっかりやる気を削がれてしまったようで、なんとも大人しく衣服を正していた。やけに大きな姿見をぼんやりと眺めながら無骨な指が衣の上を滑っていく。二年前はもっと小さな手だった。二年もあれば、あの大人しかったねーちゃんだって小煩くもなるだろうし、こいつだって一端のおとなのようにもなるだろう。それはもう立派におとなの手のひらを持ったリンがため息をついておれを見た。
「ランファン、昔はもっとおれに優しかったろウ」
「ああ」
「あれな、二年前から、ああなんダ。フーが亡くなってから、ああしておれが皇帝の道を正しく進めるように、フーの代わりに厳しくなっタ」
なんでもない風に言って見せているものの、瞳が僅かに揺れている。ランファンはじーさんの孫娘だと聞いた。皇子に仕えた者としての柵から抜け出せずに、ただ何も考えずに、そうして主君を守る奴ってのは、一体どんな気持ちなのだろうか。そしてそれを間近で見続けなければいけないリンの心境さえ、考えたくないほど、どろどろとしていると思った。静かな衣擦れの音だけが反響する。こんなにも広い場所で、生きた人間の気配がするのは、たった二つだけだと思うと、まるでこの場所こそが柵なんじゃないかと言いたくなる。扉の外でずっと待ち続けるランファンも、突き放すことも抱き寄せることもしないリンも、息をしているようでしていない。あんなにも皇帝になると強い意思を持っていた子供が、たったの二年でここまで大人になるのかと思うと、肉体を持たない自分を悔いた。手放した肉体が今目の前で、淡々と正装に身を包んでいく様を見守ることしかできなかった。
「おまえさ」
「うン?」
「皇帝にならなきゃ、そう悩むこともなかったんじゃねえの」
ほんの一瞬、動きを止めたリンは、泣きそうな顔をしておれを睨んだ。
「おれが、この国の王ダ。他の誰にも渡さなイ。それが結果としてどんなことを引き連れたって、おれは決して引き下がらなイ」
それが、それこそが、柵っていうんじゃないのか。そう言えずに、ただ「そうか」とだけ返したおれから視線を逸らし、そいつは部屋を出た。振り返ることもしなかったリンは今頃、つつかれた古傷がジクジクと疼くのにも気が付いていないだろう。生まれた時からずっと人の上に立ち、退くならば死のみ与えられる人生とは、そんなものに固執しなければ生きていられない奴らとは、どれだけ愚かしいのか。
「…やっぱりガキじゃねえか」
鏡に映らない自分に向かい呟く。死んでる場合じゃねーぞ、おれ。









「いつまで拗ねてんだよ」と言っておれのあとをフワフワと着いてきているグリードは、こんなにも子供くさい八つ当たりだって大して気にした様子がなかった。拗ねてる、か。まさにその通りだ。おれは拗ねている。まるでその通りである心境を言い当てられて、何も言い返せなくって黙っている。だからって自分が悪いとも思っていないし、他の道があったとも思わない。グリードはおれを責めているのでもないし、これ以上そのはなしをしたいとも思っていないだろう。これは単なるわがままだ。いま話をすれば、洗いざらい話してしまいそうで、恐ろしかった。弱い自分なんてのは、誰に対してもなるべく見せたくない。それこそ自分がこうなってしまってからというもの、弱みなんかは例えランファンにだって見せなかった。おれのためになにもかもを捨ててくれるあの子にだって。
「シカトなんて、生意気なガキだな」
「…すまん、お前が正しいんダ」
「謝ることはねえけどな」
生意気、というその口ぶりが大人のようで、すこしだけ悔しくなる。
はやく大きくなりたかった。誰にも迷惑がかからないように、誰にも馬鹿にされないように、はやく自由になりたいと願ってきた。それがどうしてこんなことになってしまったのだろう。相棒、とおれを呼ぶ声音の柔らかさに、甘えたくなんかないのに。幾らか後ろを歩くランファンに気付かれぬように声を潜め話す。
「今まで、ランファンとは兄弟のように過ごしてきタ。フーはほんとうに爺さんだと思っていたし、ふたりとも同じだけ大事だったヨ。おれはほんとうに、あいつらさえ守れれば、それで良かったのかもなア」
「…そんなこと、おれに話していいのか」
「おまえ、おれ以外と話せるのカ?」
ふふ、と笑うおれにグリードはなんともまあ、と呆れていた。死人を相手に愚痴を溢すおれも、狡猾なおれしか話し相手がいないグリードも、哀れだった。ほんの少しだけ勘付いているだろうランファンが、どうにか幸せになってくれたらあとはなんだってよいなんて、皇帝失格だ。こいつが現れなければ決して思い至らなかった、本心に触れる。暖かくて、少しだけ気持ちが悪い。
「ランファン」
「はっ」
呼べば、即座に傍に現れる。見慣れた黒装束に身を包みながらも、僅かに視認できる肌には無数の細かい傷が出来ていた。細い指はまるで女性のものであるというのに、おれの為に一体どれだけの者を殺めただろう。
「おれのことは、皇帝と呼ぶな」
突然の言葉に大きく目を見開いた彼女は、僅かに間を置くと恐る恐る返事をしてきた。
「…どういう意味でしょうか」
「意味もなにも、おれは未だ皇帝と呼ばれるには程遠い、ただの狡いガキだ。こんなのは、おれの目指すところじゃない。それでも近い将来、おれは名実ともに皇帝になる」
目指していた高みは未だ遠く、地で騒ぎ立てるおれたちをせせら笑うばかりである。孤独な皇帝なんて、そんなのは御免だ。誰も彼も守りたい。そうしていないと、死んだって変わらないんだ。だから、と続ける。
「それまで、おれのことは今までどおり、若と呼べ。皇帝と呼べるまで、おれをしっかり支えろ。…おまえが必要だよ、ランファン」
ぐにゃりと笑ったおれを、ぽかんと口を開けたまま見つめるランファンの顔は、とてもシン国一の手練と思えぬ、純粋でいて、美しい顔だった。まつげが震え、伏せた視線を床に這わせ、そうして一筋の涙を流した臣下の頭を撫でる。強い女だ。爺様が亡くなっても、よくぞ今まで弱音の一つも吐かず、後を付いてきてくれた。それが嬉しく、そして、物悲しい。どこまでも続く廊下の先をぼんやりと眺めながら、もしもグリードが戻ってこなければ、ずっとこんな思いを溜め込ませたまま、ただ一人のほんとうに大事な者を悲しませていたのかと思うと、少しは感謝してやっても良いかな。フン、と満足げに笑うそいつにべろりと舌を出し、そう考えていた。


皇帝とおばけとランファン

 

 

 

 

 

 

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