話しかければきちんと返答が帰ってくる。鼓膜を揺さぶるように感じるそれが本当に存在しているのかどうかは未だに定かではなく、幸福感に満ちていたおれに僅かなもどかしさと苛立ちを与えた。グリードは死んだけれど、またおれのところへと戻ってきてくれた。それだけでたまらなく嬉しいのに、おれという人間は、どうにもあの強欲をすっかり受け継いでしまったようだから。目の前でぼんやりとして、そのあたりを眺め続けるグリードを見て思わず呟く。
「…せめてなア」
「なんだよ」
「いや、なんでもないヨ」と言ってへらりと笑って、また考える。浅ましいのはどちらだろうか。










最近、リンの調子が変だ。
というのもおれが現れてまだ一週間ほどしか経っていないのだが、それでも、誰が見たって今のヤツは疲弊しているでも、浮かれているでもなく、ただ単純にどこかがおかしかった。今日の朝食は食いきれないと残してすらいた。女子供じゃあるまいし、よもや体型を気にしているわけでもないだろう。あれだけの大食漢だったあいつがこの二年で少食になったなど考えられないし、そもそも、数日前までは普通に食べていたのにだ。食欲だけではなく、あのランファンの小言にすら身をおけぬように聞いていることが多くなった。昔のように「若!」と呼ぶ姉ちゃんの声は前よりも柔らかく、おれとしては安心したような思いが胸に巣食うのがこそばゆいが、おれのこんな考えはやはり姉ちゃんに届くこともないし、それどころか存在だって気づかれていない。なんとも虚しいはなしだ。まあそれはいい、気付かれたって、こんな四六時中リンの近くでフワフワと浮いている生活が知られるだけだ。鼻で笑われるか、あの物凄い剣幕で怒られるかのどちらかしかない。
職務を終えたリンは疲れきった様子でため息をつくと、結っていた髪を解きベッドに倒れ込んだ。きたねえから、風呂に入れよ。そう口にしたおれにすら気がついていないようでもある。
「おまえ、前から、風呂嫌いだったよな」
「…うちの風呂は、広すぎるんだよ」
抑揚のない声がじわじわと広まっていくように部屋中に霧散していっていた。この感覚は何度か経験があるなとおもう。それがなんであるのか、イマイチ思い出せないものの、それは確かに感じたことがあるのだ。リンの言葉に、それも少しは頷ける。確かにここの風呂は広い。皇帝のためだけの風呂でしかないはずなのに、まるで百人風呂だとでも言いたいような広さだ。設計ミスじゃねえかと聞いたこともある。しんと静まり返った浴場にただ床を打つシャワーの音ばかりが響くものは、どこか牢獄のような物悲しさを感じた。おれの思い描いていたものとはかけ離れた様子の皇帝になってしまったらしいリンは、それでもあのガキ臭い空想論を投げ出さない。思えば、弱音を聞いたことがないのだとおもった。こうして出てきたって、おれがいてもいなくても、リンは時折おかしくなるのかもしれない。これがもし、おれが出てきたせいでおかしくなっているのかとも思ったが、そうでもないのか。リンは相変わらず、あの広すぎる風呂に一人で入るだろうし、おそらくはそんな日々を死ぬまで続けていくだろう。欲のままに動いてしまえばよいとおもうけれど、そうもいかないんだろう。それはここ数日見ただけのおれでも分かる、一般論とはかけ離れた存在の一部始終だった。リンは、文字通り、この国の全てである。こいつが死ねば国も死ぬ。こいつが生きている限り、国も生きる。少し前のおれならば大袈裟と笑ったかもしれないが、民衆の前で、にこやかに笑うでもなくただ一貫して難しい顔をしているばかりのこいつがどれだけ尊い存在であるか、分からないはずがなかった。そんな重役を自ら買ったと言え、所詮二十にもならないただのガキが、潰れないことがないとはとても言えない。おかしくなったリンは無意識のうちにそれを抑制している。なんともまあ、恐ろしい教育だ。皇子として生まれ、それ以外になることは許されない。望みすら、逃げ道すら、与えられるものを制限されてきたであろうその生い立ちなんかは聞いたわけではないが、想像はあまりにも容易かった。しんとした浴場で、ただの一度も気を抜くことなく、鏡に映った傷だらけの体を眺めるリンを、抱きしめる腕もないおれがそんなことを思ったって仕方がないのは分かっているつもりだが。
「気に入らねえなら壊しちまえばいいじゃねえか」
「おまえな、あれを作るにも莫大な金が掛かってるんだゾ」
「なんであんな風呂作ったんだよ」
「作ったのは先代だヨ。壊すのにも金が掛かるんだから、まったく面倒なものばかり残してくれタ」
「自分の父親だろ?」
「顔も名前も知らない兄弟をたくさん残してくれた、ナ」
「嫌いなのか」
そうたずねると、今までベッドに伏せていたリンがゆっくりと起き上がってこちらを見た。その目はやはりぼんやりと濁っており、どこを見ているとも言い難い、不思議な目つきだった。蓋をしていた深い穴からもうもうと沸き立つ煙のように、侵食していく海のように、空を統べる太陽のように、ただリンの存在ばかりしか感じられなかった。触れられもしないのに手を伸ばす。頬にそえても、体温を感じることすらできなかった。
「…わからなイ。おれがあの人と話すことができたのは、結局、数え切れるほどしかなかったかラ」
「おまえはガキだな」
「年上ぶるなヨ」
「年上だっつーの」
「グリードの癖ニ」
なんだそりゃ、と言って眉間に皺をよせればやっと頑なに閉ざされていた表情に光が宿った。自分で気付もしない殻に閉じこもって、周囲を退けなければ生きていけないおまえが、百年もの叡智を築けるようにと願うのは、らしくないだろうか。そんなことはどうだってよいけれど、こんなガキの思いつめた顔を見ているのは趣味じゃなかった。それなら、いつもの締りのない顔の方がよっぽどマシってもんだ。なんだってこいつはこんなにも馬鹿なんだ。全部一人で背負って生きていくなんて、無理に決まってんだろうに。
「元気が出たかよ、ションベンガキ」
「…おまえに気遣われるなんてなあ、明日は雪でも降るんじゃないカ?」
「可愛くねえガキだな」
「よく言うヨ」
そう言って、くすぐったそうに笑ったリンにこっちまで笑ってしまう。青臭くて馬鹿げていて、それなのに何故だかこいつが愛しくて、どうにかしてやれたらと思ってしまう。すっかり元の通りに立ち直ったリンが服を脱ぐ様を眺めていると、なんともひどいにやけ面で「グリードのスケベ」などと言われたものだから、つい体があったときのように胸ぐらをつかもうとした。

その瞬間、突風が吹いたようにおれの魂はリンの体へと吸い込まれていった。
あまりに突然の出来事に成す術もなく、ただ吸い込まれる直前に見えたリンの顔がどうにも間抜けに驚いたもので、なんとなく笑ってしまった。









これは一体、どういうことなんだろうか。

今回ばかりは状況を理解する時間がかなり必要になったおれを笑ったグリードが、なんとも楽しげにおれを観察しているのがよくわかる(悪趣味なヤツだ)。いや、そんなことは今ではどうでもよい。なにせ、グリードの魂が、おれの体に吸い込まれたのだ。あいつが胸ぐらをつかもうと体に触れた瞬間、突然起こったそれはもはやおれの許容範囲を軽々と飛び越えてしまっている。
有り得ない。けれど、有り得ないなんてことは有り得ない。突然思い返した言葉が自分のものなのか、こいつが入ってきたがゆえのことなのかがわからず混乱しているおれと裏腹に、グリードは早くも気に入ったようで、にやりと笑ったままこちらを見ている。
「懐かしいな、この感じ。さすがにお前の中は、おれと違って静かだが」
「おれはホムンクルスじゃないからナ…いや、というか、なんでお前はあまり驚いてないんダ」
「もう驚く気もねーよ、一度死んじまってるからな」
「いや、でも、あの時はおまえは生きてたじゃないカ。一度死んでるのに、魂だけがおれの中に入ってくるなんテ…」
「考えてばっかいるとハゲるぞ」
当たり前のようにそこに存在するグリードに、おれの頭は痛くなるばかりだった。もしやあの最後の時、いくらかおれの中に賢者の石が残ったままだったのか?いや、あいつはおれの中はとても静かだと言っていたし、そもそもその賢者の石はグリード自身だ。確かにあの時、お父様に持って行かれたはずだ。しかしそれを言い出したなら、ここにグリードが存在してるのだっておかしな話だ。もうわけがわからなくなってきた。答えのでないことを考えるなんてバカみたいだ。
「もういいヨ。おれはおまえで、おまえはおれなんダ。そういうことだろウ?」
「話がはやくて良いな、相棒」
「今度はおれが主人格だけどナ」
なんだか、随分と遠回りをしてここに帰ってきた気がするよ。そう言って笑えばグリードは一瞬だけ、苦しそうな顔をした。わかるよ、おまえが、どれだけおれを心配してくれていたのか。おまえがおれのことを、どれだけ大事に思ってくれているか。昔はわからなかった些細な感情の起伏がまるで自分のことのようにわかるんだグリード。おれだっておまえが、大事だからだ。
「もう逃がしたりしてやらないゾ。後悔しても遅いからナ」
「後悔させてみろよ」
にやりと笑ってそういったグリードに、じわじわと侵食されていく。

父上の御顔は安らかだった。生前の厳かでいてどこか人離れした面持ちは柔らかに薄れ、崩御した体にはもはやただの人である証しか残っていなかった。名前を呼ばれるだけで冷や汗が伝った声も、もう生涯聞くことはないのだとおもうと胸の内に、何故だかしらない悲しみがどっと流れ込む。思い出などなにもなかった。見知らぬ兄弟と殺し合い、その座を奪い合い、誰も彼もがあの御人のそばに在りたいと願っていた。おれは、ほんとうは、そんな群衆の中のひとりであるのが嫌で、ずっと背を向けていたんじゃないか。おれを見ない母上と同一であることを拒んで、そうしていたんじゃないか。いつだって、ほんとうは、


「おれは、おまえが来てから、考えてこなかったことばかり考えさせられているヨ」
そう口にすると、意外にもグリードはバツの悪そうな顔をして見せた。悪かった、と口ごもるそいつが面白くって、つい笑ってしまう。おれもおまえも、やはり一人ではいられないんだ。それを痛感するための二年だったなら、その役割は痛いほどだった。その通りだと白旗を振ってもいいくらいだ。なにもかもをなくして会いに来てくれたおまえに、なにもかもを手に入れても足りないおれか。お似合いじゃないか、笑えちゃうくらいだ。
「これからは、おれとおまえで、皇帝だ。グリード」



皇帝とおばけと父親のこと
 
 




 

 

 

inserted by FC2 system