別になんだっていい、というのが大体においてのあいつの口癖だった。実のところそれはそいつの雑食性と執着のなさを表しており、その言葉通りの言動を振りかざしてみせている。頬にひどい腫れを持って帰路についた弟を、ぼんやりと眺めていた。何でも欲しがるくせに、何だっていいんだな。そう言って笑う。
「おれが消えたらどうすル?」
「さがしてやるよ、どこまでだって」
欠伸をした弟はまるで興味がないといったふうに呟いて服を脱ぐと浴室へと消えてしまったけれど、おれはと言えばその言葉に、間抜けにも口を開けてしまっていた。いつまでたってもぐるぐると飲み込まれている。どこまでだって、とあいつは言ったのだろうか、そんなまさか、聞き間違いではなかろうか。けれど、けれど。手にしていた食器洗い用のスポンジを落としそうになる。
深い海のそこで、自分と同じような姿をした生き物と出会った。おれとグリードとの関係性というと、そんなような表現がぴったりと当てはまる。おれとあいつは所謂義理の兄弟で、縁あってこの家(ひどくボロい、安アパートである)に住んでいる。おれはここではない国の生まれであいつは根っからのアメストリス人だ。それであるのに外見がまったくの同じで、それが双子ではなく義理というのだから少々気味が悪い。時折自分を見ているようだとすら思うものの、その性格の差異からか、そう思うことは極稀にであった。そもそもの育った環境も異なるし、恐らく境遇だって全く違うだろう。生憎、昔の話などはしたことがないので分からないけれど。古箪笥の上におかれた写真たてに何もいれていないような男に、一体なにを聞くというのだろう。兄弟などと思ったこともあまり無いけれど、形式上ではそうであるらしいので仕方がなくその役割をこなしている。しかし、そもそものスタイルが違う。院生であるおれと、社会人であるあいつだ。もはや研究室に出向くことすら億劫になり、自宅で研究を進めているおれが目を覚ますのはこんなふうにやっと日付が変わる頃合いになることが多く、その時間にはもうグリードは眠ってしまっているか、はたまた帰らないかのどちらかだ。研究を進め、眠りにつく頃にグリードが起きる。そんなような生活を続けて気がつけば、一年にもなっていた。どうしようもない関係性に異論を唱えることもなく、たまに女の子と遊び、たまに酒を飲んで、たまに時間をともにした。風変わりな兄弟。それだけだったのに。
なにをしたのか知らないが頬にひどい腫れを作って帰ってきた弟は、このおれが消えたならさがすと言っていた。ひどく形質的であった文句はさておき、とにもかくにも、あいつはそういったのだ。このろくに知らない兄を。金を食うだけで疎ましいに決まっているこの存在を。嘘をつく人間ではないと知っているから、少しは気に入ってくれているのだろうか。異性からの好意とも友人からの好意とも異なる感情はおれにひどい焦燥感を与え、そうして身の内に巣くってしまった。深海で出会った弟は、同じかたちをした自分に執着しているのだろうか?同じ顔をした兄が、同じ顔をした弟が、その存在が。
(おそろしい、おそろしい)
ふわりと香る洗剤のにおいに吐き出してしまいそうだった。感情に蓋をする。









笑うことを忘れてしまったリンは、普段のあの胡散臭い笑みをどこかへ置いたきり、どろどろとしたものを溢れさせていた。部屋中にとぐろを巻く黒々とした感情は全て紛れもなくあいつのものだ。暗くて寂しくて冷たい。侘しい目付きをして、そうしてぼんやりと浮かぶようにしてそこらを眺めている。今にも泣き出しそうでもあり、そしてもはや、泣くことさえ忘れたようであった。そんな顔をするなと笑い飛ばしてやればきっと、それで終わってしまうと思った。この不完全な関係性の何もかもがだ。ただ溢れたものを受け止めるためだけにここにいる自分があまりにもらしくなくて、つい笑ってしまう。カラカラに渇いた喉が煩わしい。温もりの存在しない世界で俯くリンを見つめた。
すべて忘れてしまえ、など、どうして言えよう。
自嘲して目を閉じた。水槽のなかで身動ぎのひとつもしないそいつが、逃げ出そうにもそこでしか生きていけないことを知っている。どうにかしてやりたい感情を捨てるなど簡単にできるはずもないのに、それを知っていながらおれを側に置くおまえから逃げ出さないのは、おまえを諦めきれないからだ。ずっと暗い水のそこにいたいのならば、仕方がない。それならば、一緒に沈んでやるまでだ。どこからか聞こえる、水の滴る音に耳を澄ませて考える。勝手に消えさせてなどやらない。









天体望遠鏡を購入したのはグリードだ。何でいきなり、だとか思ったけれど、ろくに表情も変えずに狭いベランダに設置し始めるその後ろ姿を見ているとなんだか何も言えなくなって、ただそれを眺めるばかりだった。からりと晴れた冬の夜だ。郊外の闇夜はあまりにも星々をさらけ出していて、そんなものをこそりと覗かなくとも十分であるような気がした。シャツにグリーンの薄いセーターを着て、クリーム色のチノパンツ身に付けただけのその後ろ姿はなんとも寒そうであり、しっかりと着こんだおれからすれば、少々馬鹿げているようだった。
「宇宙も欲しいのカ」と背中に問い掛ける。
「そりゃ、そうだけどな」
「さすがに無理っテ?」
「そうじゃねえ」
窓を開けているせいで、びゅうびゅうと鋭い風が室内に雪崩れ込んできた。もとより暖房器具など炬燵くらいしかないものだから、大して変わらないのだけれど、それでも身震いしないではいられなかった。その筋肉質な背中をぐいっと丸めている姿が何だか可愛らしくて、綻ぶ表情を隠さないままに隣に腰掛ける。ふうと息を吐けばその通りに白く色付いた。天体望遠鏡などを実際に見るのは、学生の時以来だ。考えていると、鼻を赤くして眉間に皺を寄せたグリードはおれの方をちらりと見やって、手を止めることなく口を開いた。
「おまえ、こういうの、好きかと思って」
「え、ア?」
「いや、なんでもないなら、良いけどよ」
別になんだっていい、とでも言いたげな様子であるグリードに、おれはもう、じわりと熱が顔に集まるのを抑えられそうになかった。
ずるい。こんなのは、ずるいじゃないか。グリード、おれだってお前に、何かしてやりたいっていうのに。少しだけ照れたふうなグリードに抱きつけば「なんだあぶねえな」とぶっきらぼうな返しをされてしまったのだけれど、そんなのはどうだって良かった。ただひたすら、こうしていたかった。十一光年のプロキオンの細やかな瞬きを眺めながら、二人でいられたなら。
なんでもよくなんかないんだよ、おれもお前も、なんでもよくなんか、ないんだ。ちっとも。



グリリンのパロディの短いはなし










 

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