「人間のからだはひと月で細胞が入れ替わるんですよ」
知っていますか、と続けたぼくに、彼はどうもいやそうな顔をした。ピロートークにしては会話が重過ぎるし、ただの会話にしてはあまりに内容のない話だった。ぼくはただこの一言をふと思い出しただけに過ぎなかったからだ。シーツに縫い付けられたままの腕は鉛のように重たい。先日のボス就任から、ろくに休ませていないからだはさすがに恐ろしいほど疲れきっていたし、彼とのセックスがそれに拍車をかけていた。しかしぼくだって男だし、なにも彼だけの責任じゃない。いや、そんなことはどうだってよかった。瞳を覗き込むと、深い闇だけが残っていた。
「いきなりだな、細胞がなんだって」
「細胞は死ぬんですよ。からだは移り変わるんです、ぼくやあなたが意識していなくたって、それは変えようのない事実だ。互いに知り尽くしたからだも、それはただの記憶でしかないんですよ」
「お前さあ、そういう難しいことばっか考えてると、早死にするぜ」
彼はその額を露わにした短い前髪をかきあげて欠伸をした。それは今この部屋にぼくと彼が二人きりで、傍目に見れば良からぬことをしている事態の象徴でもあった。神には顔向けできない程度の罪悪だ。一糸纏わぬ彼もぼくも、その距離はゼロに等しい。先ほど奥深くまで繋がっていた我々はその若さゆえの生物的本能から未だ目が覚めきらずにいるのだ。目を細めたその表情がセクシーだと考えながらもその横顔を見つめている。窓から差し込む月明かりはぼくのからだを青白く照らしている。シーツに落ちた影が二人分であることにすら気が付いていないだろう彼はそういった、人間的な心理事情にひどく疎い人物だった。すくなくともこのぼくよりは、ずっとそうだった。繊細なぼくのこころは腐った彼にはきっとわからないのだと決め付けて、ため息をついた。武骨な指が髪をすくっては、ゆっくりと撫でていった。
「早死に、ですか。このぼくが」
「お前が死ぬところなんか想像できねえけどさ」
そう言って笑うと、頬にキスをしてきた彼を睨み付ける。誤魔化すように肩を浮かして、口の端を吊り上げたその顔はやはりというかなんというか、イタリア男そのものだった。おどけて見せる癖に本心は見せないでいるところなんて、まさにそうだ。想像できない、と言った彼とは裏腹に、ぼくの脳裏には見るも無残な死体に成り果てた自分の姿がまざまざと浮かんでいた。増殖することのない細胞たち。生命の停止。死、というものごとを考えれば、幾らだって思い浮かべることができた。それに知らない振りをするにはぼくも彼もあまりにもひどい道を歩みすぎた。こうして柔らかなベッドで和やかにしている現状が信じられないくらいに。
「ぼくは、想像できますよ」
「自分の死に顔が想像できるってのは、結構なナイーブだと思うぜ」
「それはどうも。ぼくはあなたみたいに楽観的じゃないんですよ」
「今のはこの口が言ったのかあ?あー?」
「やめへくあひゃい」
髪を撫でていた指が乱暴に口を広げてくるものでなんとも間抜けな声を出すことになってしまった。そんなぼくの様子がおかしいのか、大きな口を開けて笑う彼を見つめる。短い黒髪、大きな口、長い指。その全てがかつておわってしまいそうになったなどまるで質の悪い冗談のようだった。いまこうして我々は熱を持ち、果てしない黄金の精神をその身のうちに宿しているというのに。品のない笑みを残したまま口から引き抜かれた指からは僅かな硝煙のにおいがした。心の底まで染み付いてしまったのだろうか。
「ミスタ」
「なんだよ」
「…いえ、なんでも」
「なんだよなあ、言えよ、気になんじゃねーか」
「大したことじゃありませんので」
「少しはよー、その顔くらいかわいく甘えてみろってんだ」
「そうですね」
鼻で笑って返すぼくに、彼は少しだけ機嫌を悪くして顔を覗き込んできた。三つも年上のくせに、こういうところは幼くてなんだか嫌いじゃない、なんて絶対に口には出せないなと考えて少しおかしくなる。その顔くらい、なんて、随分惚れられたものだ。
「言わねーと、言わせるぞ」
「そういうのって、オヤジくさいですよ」
「うるせえ」
裸の体を弄ってきた彼に抵抗せず、それどころか応じるようにして腕を絡ませる。驚いたのか目を大きく開いたかとおもうと楽しげに目を細めた彼に、なんだかぼくまで笑ってしまった。神聖な月明かりなんて無くても良い。この柔らかなベッドの上でふざけたキスを重ねられれば十分だ。ミスタ、あなたのすべてが記憶になってしまわないように、しっかりぼくを愛するんですよ。生まれてから死んでいくだけの細胞のことを考える。
「ぼくはね、わりと幸せですよ。もう懐かしむ場所なんて何もないっていうのに、なぜでしょうね」
細胞死について





 

 

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