ゆっくりと頭を持ち上げても残念ながら、それはとうに事切れているようだった。半ばどうでもよいとすら思っている自分自身の冷めた感受性に情けなく思わないではなかったけれど、これ以上どうしようもない。あばらの浮いた猫の死骸だった。車にでも引かれたのか体内器官がそこかしこに散らばって、まるでなにか得体の知れない儀式のようでもある。顎を伝う汗を拭うと、すっかり軽くなったそれと、それだったものを近くの公園の花壇に埋めた。あの儚くも散った命は美しく咲き誇る花々のなにかに役立つのだろうかと疑問を抱きながら、犬やなんかに掘り起こされぬよう、深く掘った穴に埋めた。



なぜ今更あんなことを思い出したのだろうと考え首を捻ると、周りの魂たちがざわつくのが分かった。そういえばここはあのホムンクルスの中なのだ。強欲とはなんとも素晴らしい名前のあいつだ。皮肉を込めたこの考えすらおそらく筒抜けだろうに、そいつはなにも言わないでただおれをぼんやりと眺めているばかりだった。なんだ気持ちが悪イ。未だ訛りの抜けない発音ばかりがいつまで経ってもそこで燻っているような具合だ。
「猫を助けるような人間に見えないカ」
「見えねえな」
「失礼な奴ダ」
「自分は散々人殺ししといて、気紛れに獣の命を救おうとするのは何でだ」
途端に血生臭いようなにおいが鼻を突いた。まるでなんでもないように人殺しと口にした男は、恐らくおれの今までの行いを全て知っている。幼いころから嫌というほど人を殺す術を学んだことを、そしてそれをなんの躊躇もなく実行してきたことを。
「おまえはそうして、自分を偽っていたいだけじゃねえか。自分はおかしくないと言いたいんだろう」
「知った風ナ、」
「おれはそんなことはしねえ」
体中の熱が消えうせていくのを感じながら、それでも背を向けるわけにはいかなかった。幼い自分の不可解な行動とその心理、こんなやつに見透かされただなんてと怒りを感じないわけではないが、なにひとつ間違ってはいない。あのむせ返るような熱を孕んだ世界で、ちっぽけな命も救わない自分の存在が間違いではないとただ自分に言い聞かせるだけの行動。虚栄。視界がグラグラとゆれている。それを止める術も知らぬまま、どこにも行けないでいるのはおれか、あのころの自分か。
「なにも、知らないくせ二」
振り絞るようにして口にした言葉はなんとも身勝手でくだらない物言いだった。知っているわけがないことを承知でこんなことを言うのは童子だ。気を抜けばすぐに泣いてしまいそうな自分が憎くて気持ちが悪くて、嫌いだ。同じ価値を持った命に見てみぬふりをして切り捨ててきた自分を見透かされることが嫌なんじゃない。それを認められない自分こそが醜く、死に値すべき醜態を晒している。顎を汗がつたっていく感覚。太陽に侵される感覚が蘇る。
「…あれだけ啖呵を切ってたやつとは思えねえな。おいガキ、おれはお前を嫌いじゃねえし、消し去りたいとも思ってねえ。だがこれだけは言っとくぜ、自分がどんなに汚れているのかも分からないやつは主になんかなれねえぞ」
「うるさイ、うるさイ」
「だからおまえは弱いんだよ」
それだけ言うと、そいつはもう何も話しかけてはこなかった。耳を塞ぎ目を閉じ、そうして思い出すのは今やどこにいるのかも分からぬ我が臣下であり、どこまで甘ったれた人間なのかと情けなくすら思う。脳みそが痺れるような蝉の鳴き声、指先を伝う生臭い体液の感覚が這ってゆく。




気がつけば、辺りはもう夜と化していた。すっかり静かになった外の様子が全て分かるというわけではないが、それが分かる体ではある。便利なようで不便だ。まるで分からないのであれば少しは慌てるだろうに、これではどうしようもない。ランファンとフーはどうしているか、とかんがえ目を瞑った。外が静かでも相変わらずこの中では眠ることすらできないもので、ただただ考えるより他無い。
「グリード、起きているカ」
自分から話しかけたのは初めてだった。当たり前のようになんだよと返事をしてきたグリードはこんな夜更けだって関係が無いらしい。暇だとでも言いたそうにぼんやりと窓から外を眺めている。強欲のホムンクルス。それなのに、どうしてこいつは一人でただ寂しそうにしているのか。
「詫びならいいぞションベンガキ」
「ショ…あのな、おれは皇子なんだゾ」
「だからなんだよ」
「でも、今までにたくさん人を殺してきタ。殺しはしなくとも、相手の人生を奪うくらいのことは幾らでもやったヨ。なんとも思わなかっタ。こういうもんなのかって、それだけデ。なのに、あいつらが大事なんダ。あいつらがいなくなったら、おれはもうどうにかなっちまウ」
「皇子なのにか」
「皇子なのにナ」
笑っちゃうだロ、と言えばグリードはほんとうに笑って見せた。おいおれの顔で変な笑い方するナと注意をしてもまるで気にしていない。思えばこんな風に屈託のない笑みを向けてくるやつは初めてだった。いつだってこの背に負った運命の元に人からは一線を置かれてきた。誰よりも大事にされ、誰よりも憎まれた。自分の命を奪いに来た人間なんか殺したってなんの後悔もなかった。こいつに言われるまで、矛盾した行動にすら気が付かないほどに。
「リン・ヤオ。後悔するんなら人殺しはやめとけ」
「…今更、おれにそんなことが言えるわけがなイ」
「大人みたいな顔すんな。おまえまだガキだろうが」
ゆっくり考えろ、時間ならいくらでもあるんだろ。そう言ってがさつな笑い方をしたグリードは、どんな人間よりも人間のように見えた。窓の外では煤けた星空が広がっている。頬を伝ったものを汗だと決め付けて、そしてすこしだけ笑った。おれのすべてが許される日なんかは一生来なくたって良い気がした。グリード、おれもおまえのことが嫌いじゃない。言わなかった心境に、おまえは気が付いているんだろうか。


命の滴る音が聞こえる。



グリリンと命

 

 

 

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