触れたところが、じわりじわりと熱を持つ。

「おまえのことを考えると、なぜかソワソワするんだよナ」
ただでさえ細い目を細めてそう言ったリンはもはや手馴れたものだとばかりに胡座をかいてそこに座っている。魂の暴風雨。そんなような呼び方をしていた男を思い出しながら、それがなんでもないもののように間抜けな顔をしているそいつ。シンの皇子。そんな簡単な情報と少しばかりの奇妙な縁しか知らないおれは、ただ言葉を繰り返すしかなかった。夜は次第に深みを増し、視界の端でおどろおどろしいものの燻りがちらと揺れている。
「ソワソワって、なんだよ」
「わからないから聞いているんじゃないか」
それもそうだ。一人納得して、そうして目を閉じる。そうすると、今まで与えられていた視界が歪み、飲み込んで消えるはずだったそいつと対峙することが出来た。おかしな服をだらしなく着て、腹に巻かれた包帯には血がにじんでいる。それが止まることもなく、そして溢れることもなかった。これ以上の成長を止めた男は決して変化を与えられず、身勝手な体と不可解な溝を築いている。それに文句の一つも言わないとは、つくづく変わっていると感心すらしながら、なにを考えているのやも分からぬ表情が、それでいて子供らしい色を消さぬ様が面白かった。不思議な人間だ。
「おれの魂と馴染んでないだけだろ。そのまま消えちまってもいいんだぜ」
「それなら消してみろヨ。首だけになってもその魂、噛みちぎってやル」
けたけたと楽しげに笑う姿はほんとうにただの子供だ。少しばかりの違和感が凄まじいスピードで増幅していく。狐のように笑うガキを眺めながら、おれもその気になればこんな顔ができるのだろうかと考えていた。想像だけで気持ちが悪い。ヒトの顔見て口押さえるなヨ、とおかしな訛りを残した言葉が耳を焼く。脳を共有した魂は互の思考を包み隠さず曝け出す。いわば言葉すら要らないのかと思うと、それがもしこんなクソガキでなく、綺麗な女だったらなと思わないでもないが、そうなればおれも女になってしまう。それに、この子供の肉体は割に心地が良い。何より、動かしやすい。これが若さなのかとおもうと少しだけ自分が古臭い生き物のような気がしたが、それはなんの間違いもなく、古臭いんだろう。200年も生きていれば、とっくに爺だ。
「おまえさ」
「うン?」
「なんて名前だ」
「リンだヨ。リン・ヤオ」
「へえ」
リン、リンね。ぼんやりと名前を呼ぶと嬉しそうに笑うそいつがあまりにもマヌケで、ただのクソガキで、気がつけばおれの胸だってソワソワと浮き足立つような心地がしていることに気がつく。なんだ、なんだよ。そう言いたくって仕方がないのに、そんなことをいうのはどうしようもないことのような気がして、そのまま口を閉ざす。ただジッとその顔を眺めながら、ぐにゃりと力の抜けた笑みを浮かべるガキが気に食わなくって、舌打ちをした。気にいっていない、と言えば嘘になる。おれは確実にこのガキを気になっている。そうでなければ無理にこの魂をかき消すことなんか、造作もないことだ。それをしないのはなんだか勿体無いような気がしてしまう自分の不確かな迷いが作用していることだけは確かで、それが気に食わない。気に入っている。だが、それだけだ。こんなガキ一人手に入れて喜ぶ善良なヤツでもない。
「精々頑張って生き延びな、シンの皇子」
笑って目を開けると、瞼にこびり付いたのは立てられた中指とべろりと這いでた赤い舌。おれのわからない言葉で確かに「殺してやる」と言ったそのガキが、自分の首に手をかける様を想像していた。木々に囲まれた周囲の遥か頭上で場違いのように星が瞬く。降り注ぐ月光に目を細め、なんて間抜けなのかと、そう思っていた。





「…殺してやる」
誰もいなくなった空間でぽつりと呟いたけれど、それは呆気なく無数の亡者の雄叫びにかき消されていった。おれの体を乗っ取って、そうして不満げにしている男のことを考えるとやはり胸は忙しないような心地であった。この感情は知らない。今まで、恋慕も殺意も敬意も抱いてきた。そのどれもが当てはまらずに、ただその存在を主張するかのようにぽっかりと浮かんでいる。それが不快で仕方がなかった。自分が無知でいるのは嫌いだ。それだけで人より劣ると、そう言われている気がする。無知でいるくらいならば、恥を選ぶ。そう思ったからこそ恥をしのんで聞いたと言うのに、あのホムンクルスはなにもわからないと言っていた。知らないことがあるのにそれを知ろうとしないのは愚か者のすることだ。知的欲求を求めなければ人間は進化を止めてしまう。いや、そもそもが人間ではないんだったか。最強の盾を持った男は、その進化をもう遂げた部類に入るとなれば、やはり劣っているのはおれか。無意識のうちに舌打ちをして爪を噛む。不老不死をこの体に迎え入れられたのは喜ばしい誤算だったが、それがここまで強いものとは思っていなかった。手懐けようにも、どうやらアレは200年も生きているらしい。どこか鈍くなった頭の回転が苛立ちを増幅させる。何故思い通りに事が運ばないのか。
思い出すのは先ほどの不可解な感情と、それを増幅させていくばかりのあのホムンクルスだ。たったひとつのことが今を迷わせ、血の滲むおもいで皇帝を志すおれを笑い飛ばす。おまえなんかにわかるものか。叫んで、どうにかなるものならそうしている。写真越しにしか知らぬ父の顔を思い浮かべ、そうして、身を倒した。仰いでも空なんか見えやしない。なんて気持ちの悪い景色だろうとおかしなケチさえつけたくなった。おれの名前を呼んだあの男。強欲のグリード。
(仲間も失いたくない、皇帝にもならねばなるまい)
これは罪の報いなのだろうか。人間ごときが、大それた望みを持ってくれるなと、そういうことなのだろうか。もしもそうならば、ソレを殺したってよいと思えた。今までにたくさんの見知らぬ命を奪ってきた。よく知った者でさえ情け容赦なく首を撥ねた。恐ろしいのは、ただ、自分以外だった。目的が判明している行動を起こせる者は強い。だから、おれは誰にも負けない。話をしたこともない父を思う。記憶の中の体温、嬰児の記憶が揺れる。脳髄に付着した愚かしい憧れが煩わしい。希望を捨てろ、おれは、守らなければいけない仲間がたくさんいるんだ。
(この感情はきっと、知らないままでよい)
答えが出ないままで良い。名前を付けられたなら、もう逃れられないからだ。ずっと先、光明の道をおもう。ここは海の底のようだと考えて、そうして目を閉じた。耳まで裂けるような口をして笑ったおとこの顔があまりにも自分のそれに間違いがないことが、滑稽である。なにも知らないくせに、なにも知ろうとしないくせに、おれの中に入ってくるんじゃねえ。

(おまえなんかに理解されたくない)






随分と昔の夢を見ていたようだった。
気がつけば辺りは白み、借り物の体は冷え切っている。足の先がしびれている様子が鬱陶しく舌打ちをすれば、声を掛けられた。
「お目覚めかイ」
「ああ、おまえまだいたのか」
「いくら待っても消えないゾ」
相変わらず気色が悪い笑みを携えながらそう口にしたリンをぼやりと眺める。昨日言葉を交わしたきり、なぜかおれのこいつに対する感情はひどく不安定なものになっていた。今すぐに殺してやりたい気もするし、ずっと傍に置いておきたい気もする。なんだこれ、らしくねえな。記憶の戻りきらない頭は割に合わない混乱と不調を齎し、その結果としてこいつが飄々としているのだろうか。苦し紛れに考えながらも目を逸らす。
「しぶといヤツだな」
「おまえの魂が弱いんじゃないカ」
けたけたと笑うガキを睨みつける。魂が弱い、そういえば、馴染みのある言葉だ。あの憎たらしい顔をした兄の姿を思い出して胸糞が悪くなる。知らないで言われている分、まだ楽だ。それにしたってかなりキてるけどな。ブチブチと逆流していく血液は脳回転を遅くさせ、なにを考えるにも時間が必要だった。そもそも本当にこいつがプライドを知らないでいるのかも不明な点だが、おれの記憶がどこまで共有知識として存在しているのかも甚だ不明だ。確かにこちらを見ているリンの、すっと通った鼻がつくりもののように見事な線を描いていた。おかしな笑みさえ浮かべていなければ、なかなかの顔立ちをしているくせに。潜在意識でしかないおれの姿は悔しくもこのガキの外見に、おれの魂が合わさったものだ。とても見ていられないと、そうおもう。ほんとうならば、こんなガキは殺してしまったほうが楽なのに、こんな悪態を言われて許してやるようなお人好しでもなかった。殺しなら数え切れない程やってきた。後悔だってしていない。なのになぜ、こいつだけはこんな思いで見つめているのか。クロスに溢れた水がその域を広げていくように、綿が水を吸うように、重く広く、その存在を知らしめている。全身が叫んでいる。この体の持ち主の名を。
「…おまえが、」
「うン?」
「そうやって笑わなくなれば、返してやってもいいぜ」
そんなことを口にした理由も、分からなかった。ただ呆然としているおれを、それよりも驚いた表情を受かべたリンが見つめている。見開かれた目はすぐにもとの通りに戻り、その片鱗さえ隠してしまった。今やすっかりなにもなかったように、燻りさえ見せない。こどもであり、おとなである。それがどういう意味を持っているのか気づかないでいるには、おれはもう生きすぎていた。

ああ、そうか。
こいつの、この笑みの意味は。

「なにバカなこと言ってんだヨ」
「できんのか?おまえに」
「笑わなくていいだなんて、むしろ楽だナ。今更ウソだとか言うなヨ」
「おまえにはムリだ、リン」
名前を呼べば尚の事驚いたらしいガキが、不安げに瞳を揺らしている。おまえにはムリだ、まだ気付いていないのか。
「誰かに心を許したことはあるか?」

そう口にした瞬間、見開かれた瞳を零れおちそうなほどの絶望が包んだ。周囲の魂の叫びが途端にけたたましくなり、共鳴の拒絶が魂を押しつぶさんとばかりに圧迫してくる。
とても耐えられない、そう判断し、咄嗟に目を開けようとした。無数の亡者に食らいつかれたリンがシンの言葉で叫んでいる。
「イヤだ、イヤだ、やめろ」
結末も知らぬまま、逃げ出したおれはただ呆然と、すっかり明るくなった空を眺めていた。
まだ、あいつは生きているのだろうか。確認すらできず、額を伝う汗を拭うこともできず、全てを燃やし尽くすあの塊を見つめる。なにがあったかなど、そんなことに踏み込んではいけない。そうするべきでは、ない。言い聞かせるようにおもいながら蓋をする。アレの存在を、無くしたかった。脈打つ心臓の音が響き渡っている。





蛇行していく思考の群れから抜け出すことができたのは、およそ三日もあとのことだった。いや、この中での体感時間がそうなだけで、本来はもっと短く、あるいは長いのかも知れない。溢れんばかりの電気信号はおれに多大なる疲労と絶望を与え尽くすと何事もなかったように収まっていった。激動のときの中、ただこの命が消されぬようにと歯を食いしばって耳を塞いだ。恐ろしく長い時間の中、朦朧とする意識を奮い立たせる。こんなことで、倒れていられない。そう思うのに、聞こえて来るのはあの声ばかりだ。
(誰かに心を許したことはあるか、だと?)
そんな存在がもしもあったなら、おれは皇帝なんか目指さず、まっとうな幸せを願っていたのか?この手を汚すことに躊躇いを持っていたのか?
そんな人生は恐ろしかった。おれがならなければいけないものは、そのままおれの存在する意味だ。何のために、この命を授かった?
きっとおれのこの感情に気がついただろうグリードの存在がおそろしくてたまらない。一刻もはやく逃げ出して、どこかあいつの知らないところへ行ってしまいたい。一切の現実に飲み込まれそうないまこの瞬間、すべて消え失せてしまえばいいと思う自分の弱さが浮き彫りになる度に頭が痛くなる。視界がじわりと滲んだ。
「…理解なんか、されたくなイ」
「それは身勝手な物言いだな」
いつの間に現れたのか、視線をあげればそこには見慣れた自分の素顔が存在する。嘘を知らぬ強欲。おれの名を呼ぶ声音のやわらかさがおそろしくって逃げ出したいのに、足が竦んで動けない。蛇に睨まれたカエルのように、ただそこに存在しているばかりの個体と化したおれは、口すら動かせなかった。
「教えろと言っただろ」
「イヤだ、なにも、聞く気はなイ」
「いつまでそうして生きるつもりだ」
おれを睨みつけるその強さが、全てを突きつけていく。おれがこのホムンクルスに抱く感情の名を、封じ込めてきたおそろしいものを、それの行く末を。
「…だって、おれは、そんなものはいらなかったんダ。いらなかったんだヨ。こわくてむなしくてたまらないんダ。もし、おれガ、」
頬を伝う涙の熱さにすら、怖気がする。段々と近寄って来たグリードが涙を乱暴に拭って、そして瞼にキスをした。なんの感情も感じないものだった。おまえを捩じ伏せて、力だけを求めたはずだった。だって、おれの近くにいる奴らはみんな恐ろしいんだ。守りたいのに守れない無力なおれを憎んでいるんじゃないかと、そうして、離れていってしまうんじゃないかと、どうして思わずにいられるだろう。ただ傍にいるだけの存在なんか有り得るはずがない。そんな無償の愛は、おれは理解ができなくて、だから恐ろしくって、気づかないフリをしてきた。死んだように生きることがどれだけ楽か、素顔を見せることがどれだけおぞましいことか、おまえに、分かるはずがない。わかってもらいたくなんか、ない。そうなってしまったら、おれはきっとおまえに抱いてはならない感情に名前をつけてしまうから。
「なにも、言わないでくレ」
両手で塞いだ視界が正常に戻ることはなく、ただそこに存在するはずのグリードを必死に感知しようとする自分の浅ましさに笑いがこみ上げた。そんな目で、おれを見ないでおくれよ。




グリリンと素顔
 
 
 


 

 

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